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はじめての国際支援

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1995年ちょうどWindows95が発売された年に青年会議所に入会した。何度か誘われていたが入会しようとは思えず余裕もなく仕事に没頭していた時期であった。ある人に青年会議所は、日本全国や世界で活動することも可能であるという話をして頂いた。世界と聞いて、それなら入会してみたいと思った。早速、入会し入会の面接で日本JCというところに行くことは出来ますか?と聞いた。面接していた先輩方は何を言っているんだ?と驚いたような感じであった。話は希望通り進み、入会した初年度の12月には日本JCに出向することが出来た。流れ的には、地元で頑張って活動に慣れ、宮城県に出向しその後、東北か日本JCへ出向するというのが一般的な流れであることを後に知ることとなった。

 所属は塩釜青年会御所で日本青年会議所(JC)へ出向という仕組みである。日本JCの出向先はメディアコミュニケーション委員会ということが決まり、東京を中心に全国のメンバーの元で会議が開催された。当時、毎週のように大阪、東京、ソウルと仕入れに出ていた時期で、私にとっては全く苦にはならなかったし、逆に非常に楽しく活動させて頂いた。1年があっという間に過ぎ去り2年目の本番日本JCへの出向も思ったように楽しく有意義でもあった。3年目も同じく日本JCメディアコミュニケーション委員会に出向することになった。ほぼ同じメンバーが2年連続で日本JCに出向していた。

 4年目には宮城ブロック協議会へ出向し地球市民運動推進委員会という委員会の委員長として宮城県の活動に出向した。その地球市民運動推進委員会は、東北GTSという東北グローバルトレーニングスクールという名で、カンボジアへ渡航し学校と机、椅子などを自作で建設するというプログラムもあり、カンボジアへの渡航に向け活動をすることとなった。仙台からバスで成田へ行き、成田~バンコクープノンペンーバスで6時間の村での建設が始まった。カンボジアの大工さんに習いながら多くのメンバーが分担し、トンカチとのこぎりを持ち学校を建設していった。土木班はコンクリを練り歩く場所や入り口の土木作業までしていった。カンボジアの宿泊場所はお寺の中でコンクリートの上にゴザ一枚を敷きタオルケットを掛けて眠るというものであったが、なぜか問題なく眠れた。疲れていたから眠れるだけでも満足していたのだと思われる。入り口には猟銃を持った警備員がいた。トラや野獣がでる地域なのである。食事はすべて泥臭く美味しくはなかったが、さっと食べて作業を続けた。プノンペンの空き時間に市場へ出向き帽子とTシャツを購入、バンコクのトランジット宿泊でも市場へ出向きTシャツを購入した。つまり、いつもの習性で仕入れをしてしまっていた。その仕入れた商品は帰国して店に出すと良く売れていった。アジアの商品恐るべしと感じた。

 これが初めても国際支援の経験であった。

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